経済の近代化

工業の発達

 農業生産を前提に、年貢を取り立てて成り立つ幕藩体制の構造は、天保期ころにゆきづまりを示しだした。
北関東の常陸・下野両国の人口は1721年にくらべ、1846年には約30%の減少となった。人口減少は、日光山領の農村でみられたように農民が農地を放棄し、田畑を荒廃させることにつながった。
いっぽう19世紀にはいると、商品生産地域では問屋制家内工業がいっそう発達し、一部の地主や問屋商人は家屋工場をもうけて、農業からはなれた奉公人(賃労働者)をあつめ、分業と協業による手工業的生産を行うようになった。
これをマニュファクチュア(工場制手工業)といい、大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生・足利など北関東の絹織物業などで、天保期ころから行われはじめた。
 このような社会・経済構造の変化は、幕藩領主にとっては体制の危機となるため、その対応策をとった。二宮尊徳の報徳仕法のように、荒廃田を回復させて、農村を復興させる封建制再建の方法である。
しかし、すでに商品生産や商人資本のもとで賃金労働が行われており、この方法では資本主義の胎動はとめられなかった。これに対し、あたらしい経済活動を積極的にとりこむ方法が、藩営専売制や藩営工場の設立であった。

雄藩のおこり

 諸藩においても有能な人材を登用し、財政の再建をはかり、藩権力の強化を目指す藩政改革が行われた。鹿児島(薩摩)藩では下級武士から登用された調所広郷が、1827年から改革に着手し、三都の商人からの莫大な借財を事実上たなあげにし、また奄美三島(大島・徳之島・喜界島)特産の黒砂糖の専売を強化し、琉球との貿易をふやすなどして、藩財政を立て直した。さらに島津斉彬は、鹿児島に反射炉を築造し、造船所やガラス製造所を建設した。
また島津忠義はイギリス人技師の指導で紡績工場を建設し、この間、長崎の外国人商人であるグラヴァーらから洋式武器を購入して、軍事力の強化もはかった。
萩(長州)藩では、村田清風が多額の借財を整理し、紙・蝋の専売制を改革した。さらに下関に越荷方をおいて諸国の廻船を相手に、大坂の問屋などに本来運ばれるべき商品を購入し、その委託販売などで収益をあげ、財政の再建に成功した。
佐賀(肥前)藩でも藩主鍋島直正が均田制を実施し、直轄地の小作料の納入を猶予したり、町人地主の所有地の一部を藩に変えさせるなどして、本百姓体制の再建をはかった。
また陶磁器の専売を進めて藩財政に余裕をうみ、大砲製造所をもうけて洋式軍事工業の導入をはかるなど、藩権力を強化した。高知(土佐)藩でも改革派が支出の緊縮をはかって財政の再建につとめた。
いっぽう水戸藩のように、藩主徳川斉昭の努力にもかかわらず、藩内の保守派の反対で改革が成功をみなかった例もある。

 改革に成功した薩長土肥などの西南の大藩のほか、伊達宗城の宇和島藩、松平慶永(春嶽)の福井(越前)藩などでも、有能な中・下級武士を藩政の中枢に参加させ、また三都の商人や領内の地主・商人との結びつきを深めて、藩権力の強化に成功した。
これらの諸藩はこうした社会の変化に即応したあたらしい動きをとることで、雄藩として幕末の政局に強い発言力を持って登場するようになる。幕府も幕末期には、代官江川太郎左衛門(坦庵)に命じて伊豆韮山に反射炉をきずかせたほか、フランス人技師の指導で横須賀に製鉄所を建設した。
これら幕府や雄藩の洋式工業は明治維新後に官営工業の模範となった。